与論城跡

与論城跡は1405~1416年頃、琉球の北山王の三男の「王舅(オーシャン)」が与論の島主として築城していた今帰仁の支城。築城途中、北山王が中山按司の護佐丸に滅ぼされたため未完成で中断。その後16世紀初頭、花城眞三郎が按司として与論に赴任し、修復を加えて按司の宿舎、公務執行の番所として使用したとのこと。

与論城跡の頂上
竜頭の伝承
城跡の頂上からは島が一望できます

裏道を降りていくとかつての城壁の石積みが残っています。所々に残る城壁の跡。おそらく草木に覆われていたのをごく最近に整備した様子でした。

左に見える建物は、地主(とこぬし)神社
ピグチ・ウガン

上の写真は地主神社の奥にある、ピグチ・ウガン(辺後地拝所)以下由緒書きより。

太古より伝わるシュニグ・ウジャン祭の拝所が座倉(サークラ)毎に島内各所に点在し、中でも最も神位の高い聖地がこの辺後地拝所で、南方に安田(あだ)離れ、水平線の彼方にはニライカナイを祭る久高島が位置し、天の神「太陽」の礼拝所である。ピグチは「陽口」が本義であろう。豊年祭典は元々辺後地拝所の祭典であった。

王舅(オーシャン)墓

王舅(オーシャン)墓。以下由緒書きより。

王舅の遺体を辺後地拝所に密葬。天を崇める拝所(ウガン)は、覇権を争う乱世の世でも格別の聖地。当時、遺体を残せば生き返ると信じられ、迎え撃つと敵にバラバラにされ、小さな島で隠す場所もなく、唯一手を出せない聖地が拝所(ウガン)であった。

残党狩りの護佐丸(中山)軍は、偽墓の遺体を持って帰り、辺後地拝所の遺体は現存する。また側近らは密葬のあと沖縄を望む崖下で自害し、屍宮(シミャー)と呼ばれている。

通りかかりのブーゲンビリアが鮮やかでした

与論城跡には琴平神社が建っている他、隣接するサザンクロスセンターでは与論島の自然と文化について詳しく知ることが出来ます。島を一望できる眺めも素晴らしく、文化も学べるので是非オススメの場所です。

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